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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.175 飫肥人買い船1
前 田 博 仁 ( 宮崎民俗学会会長 )
人買い船
 天保7年(1835)10月、高千穂正念寺僧寛隆が長崎で筆写した「日向飫肥人買舩實録」という記録がある。
「西國筋御郡代塩谷大四郎様御支配所 日向国より被召捕候人買候舩之事」という副題がついており、文政13年(1830)飫肥藩が伊勢参宮抜け参り途中の子ども達を拉致し、藩へ連行中細島湊で露見するという事件であった。日向飫肥は日向国(宮崎県)飫肥藩のこと。
 当時、細島(日向市)は幕府領で富高代官所が統治していたことから、この事件は九州内の幕府領を管理する日田代官所を通じての取り調べとなった。
 島の祇園祭りで賑わっているところに、薩摩屋へ子ども2人が空腹なので何か食べさせてくれと頼むので、何処から来た者かと尋ねたところ1人は江戸牛込の益五郎、もう1人は大坂西宮の勝蔵という者であった。薩摩屋の女房が西宮の生まれであったことから更に詳しく尋ねたところ、2人は人買いに勾引され、船が細島に入港したとき丁度祇園祭りで船頭らが祇園会参詣に上陸したのを幸いに、勝蔵が益五郎の袖を引き便所に行くふりして船から逃れ、これから国元に帰るつもりだと言った。
 この話に薩摩屋の夫婦は哀れに思い御陣屋へ知らせたことで、飫肥藩(日南市)の悪事が発覚することとなった。
御陣屋は塩谷様御手代の志賀高右衛門という者が勤めており、2人に対面し薩摩屋からも聞き取ると、大坂から2艘が出船、乗り組んでいたのは子ども12人、船頭と水主数人、飫肥士3人、もう1艘には子ども3人、船頭など不明ということが判明した。
 船頭2人と水主3、4人が船中へ居り、即刻船頭と水主は召し捕られた。残りの水主は迯失せ、飫肥藩士3人は飫肥へ逃げ帰ったということだった。
 夫より13人の子どもの吟味があり11人は勾引され、4人は売られた者だった。船は住吉丸といい300石積もう1艘は摸稜丸といい1500石積だった。
 子ども名前と出身国は次の通り
住吉丸乗組
 奉公 尾道中新町塩屋弁蔵倅 寅吉13才 人買いに売られた
 同断 尾道中新町忠兵衛倅  与吉10才 人買いに売られた
    箱根友八倅      友蔵13才 浜松にて誘拐された

模稜丸乗組
    江戸本庄大嶋防州屋倅 吉五郎 13才 三嶋にて誘拐された
    同 麻布福田屋金兵衛倅 萬吉  13才 名古屋にて誘拐
    同 牛込加賀屋茂兵衛倅 益五郎 13才 大浜にて誘拐
    同 神田嶋屋弥蔵倅   冨吉  13才 荒井にて誘拐
    同 本庄三河屋善八倅  米吉 14才 宮(熱田神宮)にて誘拐
 奉公 大坂江戸堀相場屋   虎之助 13才 人買いに売られた
    大坂上塩町近江屋弥七倅 常吉 12才 大坂にて誘拐された
    京都堀町大工幸七倅  卯之助 10才 大坂にて誘拐された
    西宮小松屋忠兵衛倅  勝蔵  12才 石部にて誘拐された
 奉公 河内三栗村      恵ひ  14才 人買いに売られた
    同所長兵衛倅     弥吉  15才 宮にて誘拐
               此ハ病気ニ付日州細嶋へ滞留いたし候
 同断(奉公)         松次郎 16才 弥吉病気ニ付介抱付添


 富高代官が船頭らを捕らえて調べると、大坂から帰藩する飫肥藩の船2隻、船には10才から16才の子ども(内1人は女児)15人で、江戸の益五郎や大坂の勝蔵をはじめ、10人は伊勢へ抜け参り途中勾引(かどわかす)され、5人は身売り(奉公)された者たちであった。
 益五郎と勝蔵以外に勾引された者も、生まれ在所から遠く離れた所で、しかも箱根の友蔵は浜松(静岡)、江戸本庄の吉五郎は三島(静岡)、江戸麻布の萬吉は名古屋、江戸神田の冨吉は荒井、江戸本庄の米吉は宮(熱田神宮)、京都堀町の卯之助は大坂、西宮勝蔵は石部で拘引されている。
浜松や三島、名古屋、荒井、大坂、石部はいずれも生国と伊勢の間であり、益五郎らと同様抜け参りの途中に拉致されたものであった。
 江戸麻布の萬吉は、抜け参りの途中名古屋で飫肥藩役人市井元右衛門が「日向はとてもよい所で毎日米の飯や菓子、饅頭を食べることができ、そのうえ脇差(短い刀)も買ってやろう。そして、20日も(飫肥に)居れば伊勢参宮を済ませ国元へ帰してやる」などと言葉巧みに話しかけ誘拐した。他の子どもたちも同じような手口で拉致されたのであろうことは容易に想像できる。
 子ども達は富高代官所での調べの後、代官所が新調した着物を着せられ、駕籠で日田へ送られさらに大坂奉行所へ送られている。船頭や水主らも大坂へ送られたことは記されているが、処罰や飫肥藩への措置などは触れていない。なお飫肥藩到着を目前にして潮の流れで船が進まず、天領細島に寄港しなくてはならなくなり、拉致事件が発覚することになったことは、伊勢参りする子ども達への伊勢大神の御加護があったことと記録している。悪行に対する天罰ということか。
 この子どもらが拉致された文政13年(1830)は、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、天保元年(1830)など抜け参りが起こった。
参考資料
小寺鉄之助『宮崎県近世社会経済史』宮崎県史料編纂会
※抜け参り(御蔭参(おかげまいり)ともいう)
 江戸時代、特定の年におこった爆発的な庶民の伊勢神宮参詣現象。子は親に、妻は夫に、奉公人は主人に断りなく飛び出し、道中は歌い踊り歩き、衣装に趣向を凝らすなど日常の規範を超えて自由に参詣した。大規模なものは慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、天保元年(1830)の4度。毎回2、300万人にのぼったがなぜこの年におこったかは明らかでない。宗教的熱狂の中に民衆の封建的支配に対する不満を発散させるという役割を果たした。(『角川日本史辞典』角川書店)
2024-09-25 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと) 
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、
平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。
現在、宮崎民俗学会会長
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会顧問、(県)伝統工芸品専門委員、
高鍋神楽記録作成調査委員会参与、日南市文化財審議会委員

著書
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』(鉱脈社)、
『比木神楽』(鉱脈社)、
『神楽のこころを舞いつぐ』(鉱脈社)、
他に『鵜戸まいりの道』
『飫肥街道』(鉱脈社)

共著
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史(民俗)』
『北浦町史(民俗)』
『日向市史(民俗)』
『清武町史(民俗)』
『みやざきの神楽ガイド』
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