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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.164 宮崎城落城後、稲津掃部助は薩摩・佐土原両島津と戦った
前 田 博 仁 ( 宮崎民俗学会会長 )
 稲津掃部助は延岡領であった宮崎だけでなく、23年前までは伊東氏領地であった佐土原も攻め取る、また、島津氏も掃部助が奪った宮崎を薩摩領として拡大したいという二者の欲望が対立し、両者間には7か月に及ぶ小競り合いが展開する。
 10月3日、伊東勢は宮崎城を出て延岡領本庄に進撃、義門寺で島津勢と戦う。伊東側は4人の犠牲者をだし退く。
 同月4日、稲津牛之助(掃部助弟)は1,000人余を率いて穆佐(高岡町)を攻めるが、島津側も必死の防戦があり、互いに多くの手負いの者を出し退いた。
 5日夜、牛之助は柳瀬や糸原、金崎(いずれも宮崎市)に火を放ち、9日は木脇を攻めるが帰路を東長寺(島津)兵に断たれ敗走した。伊東側は討ち死に8人を出す。同日、穆佐の島津勢500が的野へ出てきたので、伊東勢が花立越で応戦、種子島大筒を撃つと島津勢はこれに恐れて退却した。
 10日、島津の援軍が鹿児島より到着し、倉岡城や穆佐城などに入城した。
 11日、佐土原勢(島津)は佐土原から出て村角(宮崎市)を焼いて退く。
 12日、佐土原勢多数が下別府(宮崎市)を襲う。伊東側は懸命に防戦するが3人が討ち死にした。
 16日、宮崎城から新名爪に出向いて3か所に兵を伏せ、佐土原勢に奇襲損害を与える。
 18日、掃部助は綾・八代・倉岡(東諸県)それに佐土原の兵が結束して宮崎城を攻めるとの情報を得て、瓜生野に兵を進めそこで島津軍を迎え撃ってこれを破る。
 このとき佐土原勢は宮崎城を攻める役割であったが、佐土原勢は瓜生野での敗戦を知らずに宮崎城に迫った。宮崎城は少ない兵で稲津掃部助が本丸、稲津又二郎が二ノ丸を守り、島津勢に鉄砲を撃ちかけた。瓜生野から引き返してきた伊東勢は宮崎城近くの奈古山に旗を立てると、これを見た佐土原兵は帰路を断たれると恐れて退却、稲津牛之助が率いる伊東勢はそれを追撃し佐土原城下の十二坊まで攻め込んだ。安井相右衛門らは夜陰に乗じて速やかに退くことを説くが、牛之助はきかず伊東兵の多くは民家に乱入し酒食を漁(あさ)った。佐土原勢は伊東勢の油断に乗じて反撃にうつり、伊東勢は狼狽して退却、明け方漫々橋(びたびたばし)に追い詰められた。12人が殿(しんがり)となり防戦する間に渡河するが、佐土原の追撃はますます強くなり12人が危うくなるのをみて、6人の武将と20人の下級兵が付近の林に旗を立て、突出して佐土原勢に反撃した。佐土原勢は援軍が来たと判断し佐土原へ退却した。この武勇を後に飫肥では漫々橋の六本槍と言った。
 10月30日、曾井城さらには清武城を奪おうと島津勢3,200が穆佐・倉岡から進撃した。これを細江・浮田の伊東勢800が千町越(戦場坂か)で何とか防戦した。
 11月3日、伊東勢は宮崎城から出て佐土原天神町を焼く。
 11日、稲津掃部助は牛之助、矢野侃世に宮崎城を守らせ清武へ帰る。この日、大坂から祐兵病死の報が届くが、士気が損なわれるのを恐れて喪を発しなかった。
 11月20日、稲津牛之助は宮崎城の軍勢を率いて穆佐城を攻め外郭を破って帰る。
慶長6年1月14日、佐土原勢が村角を焼き、2月25日にも穆佐島津勢が中村(宮崎市)を焼く。
 3月16日、高岡・穆佐・本庄・八代・綾・倉岡の島津6将が東長寺(国富町)に集まり、宮崎と清武の2城を一気に攻めることを協議、宮崎城へ進行してくるが矢野侃世はこれを瓜生野で破っている。
 3月29日、多数の穆佐島津兵が長嶺(宮崎市)に進撃、清武勢は向え討ち穆佐へ追い込めた。
 4月10日、倉岡島津勢が柳ヶ瀬で宮崎・清武の兵と戦う。
 5月7日、穆佐勢が清武を襲わんとするが細江に備えていた伊東勢に退かされる。
 5月8日、島津氏は講和を申し出、伊東側はこれに応じた。島津側は深年善哉坊が、伊東側は借屋原甚右衛門が代表となり、船引神社(清武町)で和睦した。
宮崎城を落とし、さらに佐土原や高岡・綾・木脇などの島津領を果敢に攻めた掃部助の武勇は近隣に知れ渡っていた。
 慶長6年8月、伊東祐慶(祐兵息子)は徳川家康の命令に応じ、宮崎城を高橋元種に返還するのであるが、宮崎城を攻めた責任を稲津掃部助に取らせようとした。山田匡得らが密談、これを松寿院(祐兵妻)に伝えると、兼ねてから掃部助を嫌っていた松寿院は掃部助誅殺に同意した。祐兵に重用された掃部助に対して旧臣は妬みをもっていた上に、掃部助が主君の名馬を借りていて返さず、それどころか馬受取りの使者を斬るという事件も起きたからである。掃部助に切腹を命じるがそれに従わず籠城を決意、城内士卒の多くは城外に出たので最後は僅かな直参の者と切腹した。29歳であった。  (『日向記』『日向纂記』)
※掃部助の死と妻雪江については「宮崎、歴史こぼれ話67」を参照のこと。
2023-10-24 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと) 
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、
平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。
現在、宮崎民俗学会会長
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会顧問、(県)伝統工芸品専門委員、
高鍋神楽記録作成調査委員会参与、日南市文化財審議会委員

著書
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』(鉱脈社)、
『比木神楽』(鉱脈社)、
『神楽のこころを舞いつぐ』(鉱脈社)、
他に『鵜戸まいりの道』
『飫肥街道』(鉱脈社)

共著
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史(民俗)』
『北浦町史(民俗)』
『日向市史(民俗)』
『清武町史(民俗)』
『みやざきの神楽ガイド』
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