ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() また、橋姫明神縁起に長柄(ながら)橋を作るため、白い布で袴の破れをつくろった者を人柱に立てよとすすめて、かえって自らの死をまねいたという(『日本民俗事典』)。 日南市堀川の河口左岸に波止鼻という広場があり、そこの中央に人柱様と呼ばれる石柱が建っている。 堀川は2年4か月もの歳月をかけて貞享3年(1686)に完成するが、この工事は困難を極め、なかでも吾平津神社下の岩盤開削は難工事で、作事奉行は人柱を立てることとし、衣服に横切れを使用している者と定めた。しかし、このような者はみつけることが出来ず、最後にこの奉行の衣服を調べたところ袴の内側に横切れが使ってあったという。それで奉行を人柱に立て完成させた(人柱様碑文)。 県内には西都市稚児ヶ池や日南市南郷の塩屋権現(五社神社)などにも人柱伝説がある。 鶴の池(後に稚児ヶ池)の土手が大雨のたびに切れて人々は困っていた。石貫大明神に願を立てると「大蛇の霊を祀る人柱あげよ」との神託、これを聞いた法元猶之助の三男長千代丸が「明朝池の端を通る浅黄(浅葱)の着物を着た者を人柱に選ぶとよい」と提言、浅黄色の着物を着ていたのは長千代丸だった。(『宮崎県大百科事典』)。 ![]() 人柱にされた者、人柱の立った者に「白い布で袴の破れを繕った」、「監督が袴に横切れを使っていた」、「浅葱(薄青色の作業着)を着た者」などの言い伝えあり、日南の人柱様の「作亊奉行が袴の内側に横切れを使っていた」も似ている。 このような人柱伝説は全国的に伝えられたのではないか、日南市の人柱様伝説と鹿児島入来町の伝説は全く同じと言える。 ところで堀川とは「広渡川ノ西崖ヨリ水ヲ引キ、地中ヲ疎通シテ油津ノ海ニ注キシ川ナリ、長十五町許幅広処二十間狭処十二三間、干潮深二仭ヨリ四仭ニ至ル、貞享中飫肥藩主伊東祐実ノ鑿シ所ナリ、古ハ油津市街ノ南乙姫神社マテ接聯セシ山脉ニシテ、海湾ヨリ林光寺マテ数十間、総テ一面ノ巌石ナレハ容易ニ鑿通シ難ケレトモ、此川開ケスシテハ飫肥ノ山々ヨリ伐出セル材木、皆広渡川ヨリ尾伏ノ岬(ハナ)ヲ漕廻リ油津港ニ出サレハ、船積ナシ難キ故ニ飫肥藩庁ニテ衆議ヲ決シ、天和三年癸亥十二月五日功ヲ初メ(始め)貞享三年丙寅三月二十五日マテ二十八ヶ月ニシテ功ヲ竣タリ」(『日向地誌』) |
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2023-04-25 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、 平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。 現在、宮崎民俗学会会長 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会顧問、(県)伝統工芸品専門委員、 高鍋神楽記録作成調査委員会参与、日南市文化財審議会委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』(鉱脈社)、 『比木神楽』(鉱脈社)、 『神楽のこころを舞いつぐ』(鉱脈社)、 他に『鵜戸まいりの道』 『飫肥街道』(鉱脈社) 共著 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史(民俗)』 『北浦町史(民俗)』 『日向市史(民俗)』 『清武町史(民俗)』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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