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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.151 薩摩かくれ門徒を支援した日向国寺院1
前 田 博 仁 ( 宮崎民俗学会会長 )
宮崎の直純寺
 延岡藩飛地宮崎に真宗(一向宗)直純寺がある。正保4年(1647)11月6日、延岡城主有馬直純の創立。慶長19年(1614)有馬直純は肥前高来より延岡に封ぜられるが、飛地宮崎に外教や異教が流布しているのを憂えた。人心が乱れているのを正すために、出家して大坂にいた門解を招請して開山した。門解は宮崎城主であった権藤種盛の孫、門解の父つまり種盛の子永伝も直純に招かれ延岡光勝寺の二代目住職になっていた。
 有馬直純が延岡に入封する以前、天正15年(1587)豊臣秀吉の島津討伐後の国割で、豊前国香春の高橋元種は県(あがた、延岡)に5万石を封ぜられた。所領は県(延岡市)、高千穂、宮崎、本庄(国富町)、穂北(西都市)。
 宮崎には高橋元種の家臣権藤種盛を守将として置いていたが、慶長5年(1600)関ヶ原戦のとき、東軍側の飫肥伊東祐兵は西軍側高橋元種の宮崎城を伊東氏の家臣清武城主稲津掃部助をして攻め一夜で落城させた。権藤種盛とその嫡男仲右衛門、次男八右衛門は討ち死に、幼かった永伝は落ちのびて親兄弟を慰霊するために僧籍に入ったのである。
 直純寺は創建当初光勝寺と号し、正保4年(1647)直純の子康純が直純寺に改めたと伝える。明治4年(1871)には廃寺となるが同11年復寺している。
 外教・異教流布を憂えたとあるが、外教とは切支丹宗門のこと、異教とは帯解法門のことである。帯解法門とは御蔵法門・庫裏法門・夜中法門とか布団被り・菰被りなどといわれるものと同一、親鸞の教義内容を故意に曲解した教義よって成立したもので、独特の経典がつくられている。夜中、屏風に囲まれた密室に入り、体力的にも随分と修行(難行・苦行)を伴う動作を為し、果ては心身ともに疲労困憊、朦朧となったときを見計らって、善知識様といわれる人から入信の秘事が授けられる仕組みである。屏風囲いの中に入る前、男も女も堅くて窮屈な帯の類を解いて修行の間屏風に掛けて置く。このことから「おびとき」なる名称が生まれたが、延岡領宮崎に流布していた秘事法門は、「投げ掛けた帯の末を男女二人に取らせ、其夜の夫婦と定め候由」とある。(『近世御仕置集成』)
 門解の努力で宮崎の外教・異教は一掃された。

内場三講
 薩摩西目口の一向宗門徒は密かに越境し水俣や天草(熊本県)の一向宗寺院に参るなど関係をもったが、日向・大隅の門徒は東目口の日向諸藩一向宗寺院を頼った。直純寺を取次ぎとして西本願寺と関係を保ったのは、薩州内場仏飯講と同内場焼香講それに同山田烟草講の三講であった。
 文化11年(1814)に内場仏飯講惣代の佐助と次郎右衛門は本山に嘆願書を提出している。「文化八年直純寺住職が餘間という僧位になったが二年後に急死した。餘間になるには結構上納金が必要であったが、後継の幼い実子に同じ僧位を継がせたいが金がないと直純寺門徒が嘆いている。私ども仏飯講の者も気の毒に思っている。何とか格別の御慈悲をもっては直純寺門徒の願いのとおり仰せ付けられるようにお願いします。自分たち仏飯講からも礼銀の協力をしたい」と内容で、仏飯講と直純寺の親密な関係をみることができる。
 文化13年(1816)8月、薩州内場仏飯講惣代の治良左衛門、薩州内場焼香講惣代の盛右衛門、薩州山田烟草講惣代の甚左衛門は直純寺の取次で、本山への上納金督促に対して申し立てている。
「講の本尊を小寄講に巡回する努力をしたいが、国制が厳しく法難にあっている村々もあり未だ行き届かない村もある。この度冥加銀十二貫目(凡そ四十万円)を上納しますが、内銀十貫目は上納し、残り二貫目は年々急度上納しますので恐れながら申し上げます。」というものである。
 嘉永3年(1850)直純寺を通して懇志上納したことで本山から六字尊号を講へ下すという文書が届いている。「焼香講・烟草講・仏飯講からの懇志がこれまで途絶えていたが、近年追々潤ってきて御法義も相続させ、この度もそれぞれ懇志を上納してきたことは、神妙で満足に思う。就いては思召しもって三講へ六字尊号を一幅ずつ御染筆なし下す」というものであった。
 文化13年(1816)から嘉永3年(1850)の34年の間、本山と内場三講の間には余り懇志上納がなかったとみえる。この間には天保6年(1835)の前代未聞の大法難が起きており、講を運営することも懇志を上納することもできなかったのであろう。天保6年から13年も経って、それまで息を潜めるようにしていた門徒も漸く活動を開始して懇志を上納したもので、本山は講に対して「殊勝」なことであるとして六字名号を下したもので、講を構成している里寺には法難にあって絵像などを摘発された所もあったのである。
2022-06-22 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと) 
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、
平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。
現在、宮崎民俗学会会長
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、
高鍋神楽記録作成調査委員(参与)、日南市文化財審議会委員

【著書】
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』(鉱脈社)、
『比木神楽』(鉱脈社)、
他に『鵜戸まいりの道』
『飫肥街道』(鉱脈社)

【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史』
『北浦町史』
『日向市史』
『みやざきの神楽ガイド』
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