ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() 日向国では美々津(日向市)の正覚寺が文明3年(1471)慶西によって開山された(『貞享四年高鍋藩寺社帳』)とあり豊後専相寺より5年先んじている。豊後専想寺や日向正覚寺の創建から日向・薩摩など南九州へは15世紀後半に伝わったと考えられている。 和歌山県海南市浄国寺にある阿弥陀如来絵像(方便法身尊像)裏面に「御本尊画像一幅 永正三年丙寅二月十九日 方便法身 大谷本願寺釈実如御判 薩摩国千野湊願主釈明心」とあり、本山に本尊の下付願いした釈明心という人物が少なくとも永正3年(1506)以前に存在したことになる。 薩摩千野湊の特定が困難であるが、当時薩摩島津氏領であった日向国櫛間(串間市)本城の千野湊ではないかと言われている。この頃の櫛間は海外に開け南蛮貿易も盛んで、西欧の地図にも記載される湊であった。 いつ頃から南九州で一向宗が信仰されていたかということだが、永禄5年(1562)、真幸院主北原又八郎の死後、その叔父民部少輔と高崎城主白坂下総守などが一向宗門徒となり領内が争乱になったとか、永禄9年(1566)には霧島参りの庄内一向宗徒300人が焼死したという記録があり、人吉相良晴広は天文24年(1555)、「南一向宗之事、いよいよ法度たるへく候」と禁制にしていることから、室町後期には信仰されていたことが分かる。 薩摩藩では寛永9年(1632)に一向宗改を行った。日州高原(高原町)など一向宗徒は知行を召し上げられ百姓は科物を命じられ、明暦2年(1656)には加久藤(えびの市)衆中に、万治2年(1659)には諸士、寺社被官の一向宗改を命じている。万治3年には須木で一向宗発覚が起こるなど、日向国諸県郡を中心に、衆中に多くの一向宗徒の存在が確認できる。 薩摩島津氏が一向宗を禁制にした理由を次のように挙げている。 ![]() ○石屋真梁禅師の後小松天皇による勅許説 石屋真梁は島津氏の支族伊集院忠国の子で、南北朝統一に尽くした功績により後小松天皇から一向宗制禁の勅許を得たというもの。石屋真梁は曹洞宗福昌寺を開山、同寺は島津氏の菩提寺となった。 ○島津日新斎忠良による禁制説 島津第15代貴久が父忠良と日薩隅三州統一に懸命になっていた頃、中央では同じ戦国大名の織田信長や徳川家康らは一向一揆に手を焼いていた。このような中央での情報は島津氏にも当然入っており、一向宗への警戒を持っていたと考えられる。忠良の歌に、 「魔のしよいか(所為か)天眼おがみ(天けん拝み)法華しう(宗)一かうしう(一向宗)にすき(数寄)のこさしき(小座敷)」 とある。天けん拝みとは切支丹のことそれに法華宗と一向宗、そして茶屋遊びは領内を腐敗させる元凶であるとし、日新斎の思想に合わないものであった。 ○島津征伐時豊臣秀吉に一向宗徒が内応した説 天正15年(1587)豊臣秀吉は九州の殆どを席巻した島津氏を討たんと20万の大軍で攻め込んできた。このとき一向宗門徒が秀吉勢に協力し道案内したことで、一向宗布教を禁じたというもの。 これに関連して、天明3年(1783)に薩摩に来た古河古松軒は、豊臣秀吉の島津征伐に際し薩摩領民が一向宗門徒であることを知っており、親鸞上人直筆の六字名号を陣前して攻め来たことにより、行く先々の薩摩陣将・諸兵は有難い名号を拝する事となり、涙を流し我先にとその場その場を退陣した。攻め来る大軍に戦わずして退陣する諸将が続出することから島津氏も打つ手がなく降参、それから島津領日向・大隅・薩摩は一向宗制禁になったと記している。 ○伊集院幸侃一向宗信者説 島津氏の支族伊集院幸侃(忠棟)は豊臣秀吉による島津征伐の際和平交渉に奔走、薩摩は島津義久、大隅は島津義弘、佐土原は島津家久に安堵された。その後、伊集院幸侃は秀吉や石田三成に近づき、文禄2年(1592)の太閤検地で都城八万石を与えられた。幸侃には野望があったらしく、島津攻めで九州東側を南下してきた羽柴秀長の野尻陣に招かれた佐土原の島津家久が中毒死し、歳久が秀吉の怒りに触れて憤死したことなど、全て幸侃の策略であったとする風説が流れた。 慶長4年(1599)の幸侃は義弘の子忠恒(家久)によって伏見で誅殺され、幸侃の子忠真源次郎は都城で宗家島津氏に抵抗する「庄内の乱」を起こした。島津氏はこの乱に手を焼き、徳川家康から助勢の命を受けた延岡高橋氏や高鍋秋月氏らが出陣している。結局、頴娃一万石に転ずることを条件に和議が成立した。幸侃一族は一向宗であり門徒であった領民も乱に加わったと伝え、島津氏は後難を恐れて禁制したというものである。 |
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2022-04-26 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、 平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。 現在、宮崎民俗学会会長 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 高鍋神楽記録作成調査委員(参与)、日南市文化財審議会委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』(鉱脈社)、 『比木神楽』(鉱脈社)、 他に『鵜戸まいりの道』 『飫肥街道』(鉱脈社) 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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