宮崎みんなのポータルサイト miten !でグルメ・イベント等の生活情報をチェック!
働いてミテン
ユーザー名:
パスワード:
トップ | 無料会員FAQ | サイトマップ | リンク集 |
すべて 食べる
遊ぶ 買う
キレイ 暮らす
健康 医療・福祉
でかけてmiten
買ってミテン
働いてミテン
ミテンの本棚  >  宮崎、歴史こぼれ話

宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.139 伊東義祐の嫡子歓虎丸1
前 田 博 仁 ( 宮崎民俗学会会長 )
歓虎丸位牌
 この位牌は清武町大字加納字年神、通称南光院に祀られていたもので、史料価値が高く祠の老朽化による倒壊と位牌散逸の恐れがあったことから、南光院を祀っておられる田野町長友敏夫氏にきよたけ歴史館への寄贈を申し出たところ、快諾され収蔵に至った資料である。
 本資料を南光院で気づかれたのは歴史に詳しい日南市の武田幸雄氏で、平成20年ごろ南光院に歓虎丸の位牌があるので見て欲しいと誘われ同行した。
 四間四方の堂は建屋全体が傾き、板壁の所々は破れ、床は踏む位置を確かめなければ歩を進められない程の荒れようだった。正面奥の祭壇中央に位牌は安置されていた。

前三州大守性山幻真童子大禅定門尊霊位
 歓虎丸位牌は上段の頭文字が「前三州大守」、戒名は「性山幻真童子」、中文字「大禅定門」底文字「尊霊位」となっており、中文字、底文字は貴人に対する書き方である。三州の大守とは薩摩・大隅・日向三国の国主ということであるが、それは寛正2年(1461)歓虎丸から5代前の伊東祐堯が足利義政から、「先忠為褒美日薩隅三ヶ国之輩可為伊東家人、但嶋津渋谷除之者也」(『日向記』)の教書を賜った(伊東家では歴代領主が名乗る)ことに起因するもので、都於郡伊東氏にとって三州の大守になることが念願で好んで使用した。しかし、実際は薩摩・大隅・日向(一部)の大守は薩摩島津氏、伊東氏は日向国のみの国主であった。
「童子」とする戒名は幼くして鬼籍に入った故人に用い、歓虎丸が九歳で亡くなっていることによる。
「義祐朝臣御寵愛ノ嫡子歓虎丸、天文十七年戊申二月始ヨリ重病ニヲカサレ六月十日隠レ玉フ、(略)則一寺ヲ建立有号幻真寺彼影像ヲ造テ彼寺ニ安置ス、法名性山幻真童子、公モ又御悲嘆ノ余御年三十六ニシテ御出家アリテ三位入道殿ト申ケリ」(『日向記』)
 天文17年(1548)6月10日、寵愛の嫡子歓虎丸を病で亡くした伊東家15代義祐は、幻真寺を建立して歓虎丸の影像を安置した。法名は性山幻真童子。義祐は悲嘆のあまり36歳で出家以後三位入道を名乗った。

愛宕山大聖寺南光院
 歓虎丸位牌が安置してあった南光院は愛宕山大聖寺、現在の宮崎市清武町大字加納字年神に鎮座した。今は宅地に造成され痕跡はない。南光院は大聖寺住職で修験者、代々南光院を名乗った。
 南光院の子孫長友敏夫家の系図によると、
 先祖は鎌倉に住し佐藤を名乗っていたが、源頼朝の海上船遊びに小番として弥三郎宗次が供奉、このとき飛来してきた鴨を射落としたことにより褒美として長友の姓を賜った。宗次の子弥二郎安門のとき日向国へ下向、佐土原に居住し富田郷内平部、浮田庄大塚別府、加江田郷等を賜う。これより11代後長友二郎兵衛安義のとき山伏となり市蔵院を名乗り、この息安相も山伏を引き継ぐ。安相は大峰入峰修行を七回も実行した名の知れた修験者で宗印坊(後に南学院と改める)を名乗り、加納愛宕山大聖寺を開山する。安相の子安帝も修験となり南光院を名乗った。
 飫肥藩第五代藩主伊東祐実は都城島津氏と長年領有を争っていた牛の峠問題を飫肥側の主張通りに解決、また、飫肥杉搬出の安全と利便を解決した堀川運河開削等を実行した名君と知られているが病弱であったという。
 南光院安帝は法力が強く霊験あらたかであったことで知られ、元禄4年(1691)春、藩主伊東祐実の病気平癒祈祷を願い出、見守る家臣らにその法力を示現し、その名を広く知らしめ褒美として国光の槍を下賜されている。この安帝から長友南光院を名乗り以後嫡子は代々長友南光院を名乗った。
 歓虎丸位牌が南光院に祀られた理由を、長友家では同家修験僧が病気の歓虎丸を薬草風呂に入れ治したことにより寺領を給されたと伝える。

円光院址の歓虎丸僑墓
 歓虎丸の僑墓が西都市立都於郡中学校の西方300m程の円光院址にある。墓石は高さ1.1mの伊東塔、水輪前面に「前三州大守性山幻真童子大禅定門」、同後面に「天文十七年戊申六月十日 九歳」とある。歓虎丸墓は幻真寺に祀ってあった訳で、円光院址の歓虎丸墓は後世に建立したものと思われる。なお歓虎丸を祀った幻真寺址は確認できない。
 円光院は歓虎丸の弟、17代伊東義益を祀る寺院。「円光公、諱(いみな)(いみな)ハ義益通称ハ六郎幼名ハ虎房丸、金柏公ノ庶子、母ハ福永氏、従四位下ニ叙シ左京大夫ニ任セラル、永禄十二年七月十一日卒ス、年二十四」(『日向纂記』)
 義祐から家督を譲られた義益が岩稲荷(西都市)での17日間の参籠を行っていたとき急死、永禄12年(1569)7月11日、24歳だった。
 義益墓は高さ1.9mの伊東塔、水輪正面に「前三州大守桂円法光大禅定門覚尊位、永禄十二年己巳七月十一日」と刻んである。

参考資料
宮崎県『宮崎県史叢書 日向記』昭和五十八年 平部嶠南『日向纂記』歴史図書社 昭和五十一年 
2021-06-22 更新
2021 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07
2020 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2019 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 11 | 12
2018 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2017 | 01 | 02 | 03 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2016 | 01 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2014 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 12
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと) 
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、
平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。
現在、宮崎民俗学会会長
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、
高鍋神楽記録作成調査委員(参与)、日南市文化財審議会委員

【著書】
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』(鉱脈社)、
『比木神楽』(鉱脈社)、
他に『鵜戸まいりの道』
『飫肥街道』(鉱脈社)

【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史』
『北浦町史』
『日向市史』
『みやざきの神楽ガイド』
(1) 2 3 4 5 6 7 8 9 10 » 
PopnupBlog 3.0 Denali-1225 created by Bluemoon inc.  
e87.com(株式会社千趣会イイハナ)
富士通パソコンFMVの直販サイト富士通 WEB MART