ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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誰が調べて言い出したのか分からないが、竹(ササ)に実がなるのは60年に1度と言う。竹に実がなると飢きんになるとか、逆に飢きんのとき竹に実がなりそれを食べて飢えを免れたなどの俗信がある。 寛永7年(1630)8月、日向国中(宮崎県)前代未聞の大風が吹いた。翌年日向国は飢きんとなるが、野別府(高鍋町)では笹子(竹の実)ができ、民はこれを食して飢えを凌いだ。(『宮崎県近世社会経済史』) 延宝4年(1676)高千穂は麦の収穫が悪く飢きんになった。4月、5月の頃「すゝのミなり(スズタケの実なり)男女老若ともこれを採り、命仔細なく(生命に別状なく)過ぎた。」(『高千穂町史』) 享保13年(1728)は山之口(都城市)など大飢きんであった。このとき至る所に笹の実が成り、中でも都城の山田(都城市)や安永(都城市)で多く実り、山之口では飫肥藩境や去川などで笹の実がなり人々はこれを採って命をつないだ。同14年笹の実が成った一帯の唐竹はすべて枯れた。 (『古今山之口記録四之下』) 嘉永3年(1850)の4月、5月日向国の霧島周辺(宮崎県)の山野に笹の実が大いに実り、実を採取する男女が連日山中に分け入り大騒ぎだった。実の大きさはグミ程から麦粒ぐらい、大小様々で米食の代わりとなった。特に蕎麦に混ぜると風味がまし、薩摩国分辺り(鹿児島県)の蕎麦店は1升8合で銭100文という値で買い取った。さらに笹実は米焼酎ほどではないが甘味がよいということで、諸県(宮崎県)では日に500人から600人、都城、小林、高原、高崎(宮崎県)の者は御池辺りまで何百人も、財部、末吉辺(鹿児島県)からも繰り出して日に1,000人を下らなかったと言われた。 このときの人気は大したもので、 行こや参ろや、庄内さへ行こや 庄内の笹ン葉にャ、米がなる と歌にまで謡われたくらいに熱狂した。ところが、その年の8月7日は古今無類の台風が日向国に上陸し、佐土原藩(宮崎県)では倒家1,500軒、高鍋藩三名、宮王丸(宮崎県国富町)などは130軒であった。記録がないが他藩でも大きな被害あったと思われる。(『宮崎県近世社会経済史』) 笹の実と飢きんの俗信は全国的にあるらしく、『日本俗信辞典』には「笹の花が咲く、または実がなるとその年は凶作と、山形県・福島県・新潟県・岐阜県・大阪府・兵庫県・広島県・鳥取県・高知県・福岡県などで言い、笹だけでなく竹もに広く言われる」とある。 筆者は15、16年前宮崎市岩切で竹の実がなっているのを見た。1坪ほどの広さに生えていた竹は枯れ、現在その地に竹の再生を確認していない。 参考資料:小寺鉄之助『宮崎県近世社会経済史』 『高千穂町史』 『古今山之口記録四之下』 鈴木棠三『日本俗信辞典』角川書店 |
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2019-06-24 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会会長、宮崎県立博物館協議会会長、 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 (県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員 【著書】 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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