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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.82 江戸後期、興隆した大淀川流域の豪商
前 田 博 仁 ( 宮崎民俗学会副会長 )
 宮崎県内最大の河川大淀川は流域に豊かな田園を形成する。
 江戸時代、河口に赤江港がありこの港が上方の堺(大阪府)と薩摩坊津(鹿児島県)を結ぶ中継港であったことから多くの千石船が出入し物資の集散地であった。江戸時代後期になると、中下流域に舟運に基づく物資の交流も盛んになり、商業が大いに発展し経済的に豊かな商人が興隆した。

城ヶ崎・赤江(飫肥藩)
 城ヶ崎は最下流に開けた商人町。町には別当や乙名など町役を設けて商人に自治を任せ、太田や南村、小村などの豪商がそれに当たった。
 豊かな経済は商人の間に俳諧文化を興させた。元文3年(1737)行脚俳人安楽坊春波が来遊し日高西雪・菊治らを指導、さらに京都五升庵蝶夢の門に入り、次ぎに柏原瓦全、明和年間(1764~71)には京都の百井塘雨に指導を受けた。
 太田可笛、日高(小村)五明、南村梅雨ら逸材を輩出、中村俳壇、清武俳壇、本庄俳壇に影響を与えた。
 赤江は、古くは城ヶ崎に並んで赤江川(大淀川)の右岸あったが、寛文2年(1662)大津波の害を受け海岸から離れた現在の地に移ったが、赤江港はそのまま大淀川河口に残した。藩は河口に津口番所を設け、川を上下する舟の積荷に運上金を課した。赤江の商人に酢醤油製造の杉田家があった。

中村・上野町(延岡藩)
 城ヶ崎の少し上流に中村、その対岸に上野町という商人町が興隆した。二つの町には鹿児島街道と飫肥街道が通り、さらには中村から鵜戸神宮往還も通るという交通の要衝、両町の間には橋がなく旅人は渡し舟で行き来し、宿屋などが繁昌した。
 延宝3年(1675)9月17日、橘三喜は「上別府を通り、赤江川舟あり、此処を小戸の渡りと云」と記している。
巡見使や飫肥藩主の参勤交代で渡河するとき、上野町や中村町、福島町、小松村などの舟全てで渡した。
 中村町に両替商太田直三郎、岩切与平、日高弥三郎などがいた。岩切与平は宮崎交通社長であった岩切章太郎氏の祖父。

高岡(薩摩藩)
 慶長5年(1600)関ヶ原戦のとき日向国でも戦があり、清武城主稲津掃部助が西軍側であった延岡高橋元種の宮崎城を攻めた。島津義弘は掃部助の侵攻に備えて天ヶ城を築き、伊集院や佐土原など各地から武芸者を集め西の防備の要とした。それまでの地名久津良(くつら)から高岡とし関外四ヶ郷の中心に仕立てた。
 商人に清水八郎左ヱ門、田丸平助、水間次左ヱ門などがいた。
 嘉永6年(1853)12月島津斉彬は高岡に巡見、「四日五ツ頃(午後8時頃)高岡地頭仮屋へ御着、直に退出旅宿町の清水新兵衛所、旅宿清水新兵衛家、手広く表之間は大坂より切込廻し建たりと云、浴室雪隠など田舎体にてはなし、給仕小女是また大坂こと葉なり」
 斉彬は通常の宿泊所である地頭仮屋には泊まらず清水家に泊まっている。

本庄 (幕府領)
 江戸初めは延岡領、正保2年(1645)幕府領、正徳2年(1712)延岡領、寛保2年(1742)から幕府領。本庄川の舟運に加え薩摩街道、肥後街道、宮崎往還などが通り交通の要衝であった。
 六日町には6の付く日、十日町には1日、10日、20日と毎月定期的市が立った。享保の頃から商人が台頭し、和泉屋や桝屋、山桝屋、玉利屋、恵比須屋などが名を連ねた。

和泉屋弥平次
 明和(1764~1771)の頃、穂北地方から楮皮を買い集め、農家に割り当てて和紙をつくらせた。後には本庄や穂北、米良の和紙はすべて和泉屋を通して大坂に出された。
高鍋藩は文化11年(1814)8月に金1,800両、文政4年(1821)4月に金1,000両、天保9年(1838)11月に金1,000両を和泉屋から借りている。

商業が発展した理由
 大淀川中下流域を俯瞰すると下流右岸は飫肥領、左岸は幕府領、中流域は延岡領、その上流に高鍋領と幕府領、右岸には薩摩領と狭い範囲に各藩がモザイク状に配置されている。
 さらに延岡領の中村、上野町は城下から8,90㎞離れた飛び地、飫肥領城ヶ崎も城下から4,50㎞離れ藩域最北端に位置する。高岡は薩摩藩と言っても関外四ヶ郷、内場に比べ格段の自由があった。幕府領本庄は言うまでもなく商人町。
 これら豪商となった者たちは支配者階級の干渉を受けず自由に商売を営み、舟運の発達や街道の整備、赤江の港が上方に繋がったことが大きな理由となった。




参考資料;『日向地誌』『一宮参詣記』『郷土歴史大事典 宮崎県の地名』『高岡町史』『宮崎県大百科事典』『宮崎県史料 高鍋藩続本藩実録下』
2016-09-20 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
1942年宮崎市生まれ 宮崎大学学芸学部卒 県内小学校、宮崎県総合博物館、県文化課、県立図書館、宮崎市生目台西小学校校長等歴任、定年退職後きよたけ歴史館館長
現在、宮崎民俗学会副会長、清武町史執筆員、県伝統工芸審議会委員

【著書】
『鵜戸まいりの道』(私家版)
『歩く感じる江戸時代 飫肥街道』(鉱脈社)
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史 民俗編』
『北浦町史』
『日向市史』
『角川日本地名大辞典 宮崎県』(角川書店)
『郷土歴史大事典 宮崎県の地名』(平凡社)
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