ミテンの本棚 > みやざき風土記 | ||||||
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生目神社は宮崎市生目字亀井山に鎮座、品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)、藤原景清他を祭神とする。古くは活目(いくめ)八幡宮と称していたが、明治になり生目神社と改称された。元亀(1570~73)・天正(1573~92)の兵火で古文書や棟札等が焼失し創建など詳細は不明、天喜4年(1056)の「宇佐大鏡」に当神社の記述がある。 神社では縁起として、 [その1]平家の武将平景清が日向下向に際しこの地に閉居した。 [その2]当地亀井山は古より眼疾に患う人々に霊験ありと活目八幡宮として奉祀した。 [その3]活目入彦五十狭尊(いくめいりひこのみこと・垂仁天皇)を祀った。応神天皇が熊襲征伐の途中、父親垂仁天皇の命日に当たりこの地で霊祭を営んだことを住民が歓迎、活目八幡宮として奉祀した、など諸説があるが何れも真ともなしえないとしている。(「生目神社由緒」説明板) 景清の霊を安置する景清廟が宮崎市下北方にある。源平合戦が壇ノ浦で終わるが平家の武将悪七兵衛景清は遁れ、密かに源氏の大将源頼朝の命を狙っていたが、捕えられ日向国へ流された。仏門に帰依するが現世の煩悶が絶えず、源氏への怨念を断つため自ら眼を抉って投げ、それは遠く生目神社に達するがまだ眼は生きていたと伝える。 元禄2年(1689)3月3日豊後国日田(大分県)の郡代池田季隆が来拝し、 「かげ清く照らす生目の鏡山(水鏡)、末の世までも雲らざりけり」と景清を偲んで詠んでいる。日向下向のとき景清に従った家臣の一人、高妻氏が代々祠官となり現在に至る。 当神社の縁日は旧正月15日~17日、令和2年は2月8日~10日だった。参道や境内は県内外の参拝者で溢れ、社殿では豊作祈願の神事が行われた。小ビンに詰めた亀井山の湧水「御神水」を多くの人が求めていた。かつて農産物の市が立ったが現在は参道両脇に露店が隙間なく立ち並び、子ども達は金魚すくいや射的に興じていた。 佐土原藩の修験野田泉光院は、九峯修行に旅立つ文化9年(1812)9月7日生目神社を参拝している。「七日 晴天。巳の刻(午前10時頃)花ヶ島を発す。生目八幡宮と云ふに詣で納経す。当社は古へ、平家悪七兵衛景清盲目となり落着の地也、其眼を崇めたる宮也。今に眼病の人祈誓すれば平時平癒す。」(『日本九峯修行日記』) 天保8年(1837)日向国に来た松浦武四郎は生目八幡宮について書いている。 「日向国宮崎郡中村の西に生目八幡宮といふあり。入口に大なる石華表あり。石燈籠、銅(カナ)燈籠両側に建連り、白木の神門を過れバ御供殿、拝殿、神楽殿美々敷建並び、本社は白木造りに銅(アカガネ)瓦、破風の彫物雲龍、花鳥、細工精巧手を尽し、階上にハ狛狗(コマイヌ)あり。神鏡光り涼しくいと巍々たる神殿なり。当社は平家勇者悪七兵衛景清、生ながら眼目を刮(クリヌ)キ地中に埋ミたる古跡にて、眼病を患(ウレウ)る者心願をこむるに忽奇特を得るよしにて、隣国近郷より諸人の参詣絶るひまなし。景清其身は落魄して生涯志を遂ずといへども、勇者の一念今にいたり瑞験を顕す事一ツの不思議なり。 此宮より一里ばかり北に神集山沙汰寺とて景清を葬たる寺あり。堂内に景清の木像を安置せり。其姿は盲目の官服を着せり。境内に景清水鏡の井戸幷に碑石等今に残れり。落人となり此辺に潜ミ住けるよしなり。」(『松浦武四郎紀行集』) 資料 『宮崎県神社誌』宮崎県神社庁 『宮崎県大百科事典』宮崎日日新聞社 『角川日本地名大事典 宮崎県』角川書店 野田泉光院『日本九峯修行日記』 松浦武四郎『松浦武四郎紀行集』 |
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2020-04-14 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会会長、宮崎県立博物館協議会会長、 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 (県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員 【著書】 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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